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    Lenin, Stalin, and Hitler:The Age of Social Catastrophe. グルジア,ゴーリ[没]1953.3.5. ソ同盟における社会主義の経済的諸問題 日ソ親善協会 訳. 4 (Oct., 1993), pp. ヨシフ・スターリン 生涯 生い立ち父ヴィッサリオンと母ケテワンヨシフ・スターリンは1878年12月18日(ユリウス暦 12月6日)[14]、グルジア語名イオセブ・ベサリオニス・ゼ・ジュガシ … By Robert Gellately. スターリンは答える アメリカ各界代表との会談を中心に 高山洋吉編. また、ヤーコフに対しては厳しく接したため、その苦しみからヤーコフは拳銃自殺を試みたが失敗した。それを知ったスターリンは「やつは拳銃を真っ直ぐに撃つことすらできない」と呟いたという。, 独ソ戦でヤーコフがドイツ軍の捕虜となったときは「捕虜見殺し命令」を出したあとであった。スターリングラード攻防戦での戦いで降伏したドイツの陸軍元帥フリードリヒ・パウルスと、ヤーコフの解放を条件にした交渉を提示してきたドイツに対して、スターリンは「ナチスに寝返った息子などいない」と返答して申し込みを拒絶した。彼は、息子が自分を困らせるためにわざと敵に捕まったのだと考えていたのである。, スターリンは父親としての愛情を微塵も見せず、「男なら堂々と死ねばよいのに」と怒る傍らで「私の息子ヤーコフの命はあなた(パウルス)の手中にある。あなたが捕虜数百万人全員を解放するか、あるいは私の息子は彼らと運命をともにするだろう」と述べ、捕虜交換による釈放には一切応じなかった。, しかしのちにゲオルギー・ジューコフがヤーコフの安否を聞いたとき、スターリンは「あいつは死を選ぶだろう」と沈痛な面持ちで話し、食事に手をつけなかった。その一言通りヤーコフは、自身が収容されたザクセンハウゼン強制収容所内の電気柵に突進して自殺したと言われている。, 自分の肉親にも冷酷なスターリンであったが、母親のエカテリーナには頭が上がらなかった。彼女は息子の計らいでカフカースの宮殿に住んだが、小さく粗末な一室で質素な生活を続け、グルジアのジャムや果実を毎年のように息子に送り、息子と息子の妻に手紙をよく書いていた。1935年、死が近付いた母に会いにスターリンがカフカースを訪問した際、エカテリーナは「ヨシフ、お前はどんな人になったの?」と聞くと、スターリンは「お母さん、僕はツァーリみたいな仕事をしてるんだよ」と答えた。これに対してエカテリーナは、「司祭になってもらいたかったのにねえ」と嘆息した。エカテリーナのこの言葉に国中が沸いたという[393]。, 一方で晩年のエカテリーナを診た医師N・キパシーゼは、彼女から「ある時、酔った父が幼い息子のヨシフを持ち上げて、力任せに床に叩き付けた。そのために幼子は何日か血尿が止まらなかった」という話を聞いた。夫が酔って暴れ始めると、エカテリーナは怯えきっている幼子を抱きかかえて近所へ逃げた。, だが苦しい労働に鍛えられたエカテリーナは力が強くなり、夫との掴み合いの喧嘩を恐れなくなった[394]。ヴィッサリオンがトビリシに去ってから家の主人となったエカテリーナは、拳骨を息子への躾に向けた。言うことを聞かなければ、息子を容赦なくぶった。晩年の母を見舞ったスターリンが「どうしてお母さんは僕をあんなにぶったのですか?」と尋ねたのはこのためである。この「ぶつ」という言葉は「育成」を意味した。, グルジア系ユダヤ人のハナ・モシアシヴィリは、少年のスターリンを「おぞましい家庭生活が、彼の心を冷酷にした。彼は図々しく、乱暴で、強情な、どうにも我慢のならない子だった」と述べている[395]。, 「ヨシフ・スターリン」という名の曾孫が生存しており、2007年にトビリシ・シンフォニー・オーケストラと共にコンサートを行った[396]。, スターリンの猜疑心は、年とともに強まった。70歳の誕生日の祝いにベリヤが立派な別荘を贈呈し、スターリンはその別荘を見にいった。しかし、美しい樹木に囲まれているのが気に入らず、「これは何かの囮かな?」と言うなりさっさと帰っていった。その後、スターリンがその別荘に行くことは二度となかった。, 1945年6月24日、モスクワにて対ドイツ戦の戦勝パレードが行われた。ロシアの慣習では、勝利した司令官が騎乗することになっていて誰もがスターリンにその栄誉が与えられると思っていた。だがその1週間前、スターリンは、「私は年をとったので乗れんよ」と断り、ジューコフ元帥を指名した。翌日、ジューコフの下にスターリンの次男ワシーリーが来て、「ここだけの話ですが、昨日父は乗馬の稽古中に落馬して肩と頭を打ってしまった。父は忌々しげにつばを吐いてジューコフにさせろと言ったのです。その馬に乗るのです」と耳打ちした。ジューコフは感謝し、スターリンを振り落とした馬で練習を行い、本番で見事に乗り回した[397]。, 1938年3月15日、スターリンの盟友ブハーリンが処刑された。ブハーリンは死の直前、スターリンに最後のメッセージを送っていた。「コーバ。なぜ私の死が必要か?」の出だしで始まるこのメッセージは、スターリンが自身の机の抽斗に入れたまま、スターリンの死後まで公開されなかった。, 1936年、大粛清の真っ只中、軍司令官のイオナ・ヤキールが、処刑される直前にスターリン宛に冤罪を訴えるメッセージを送った。スターリンはそれに「悪党」、さらに「淫売」と書き込んだ。それに続けて、スターリンの部下たちも彼を罵倒する言葉を次々と書き込んだ。のちに彼が、「スターリン万歳」と叫んで銃殺されたことを聞いたスターリンは、ヤキールを「偽善者めが!」と罵った。また、彼の境遇を哀れんで処刑時に不意に涙を流したと言われる銃殺隊長も、のちに処刑された。, 1939年の冬戦争で赤軍は大した作戦も立てずに侵攻した結果、ゲリラ戦を取るフィンランド軍に対し、おびただしい犠牲を出した。スターリンは、旧友であり元帥でもあるヴォロシーロフに全ての責任を擦り付け、夕食会の席上、衆人の前で彼を口汚く罵った。しかし、それまで一度もスターリンに歯向かったことが無かったヴォロシーロフもこのときの侮辱には我慢できず、「(敗戦の責任は)あなたの粛清によって、多くの優秀な軍人たちが殺されたからではないですか!」と反論し、さらに食事がつけられている大皿をテーブルの上にひっくり返した。スターリンはすぐさまヴォロシーロフを罷免したが、さすがに反省し、追放されていた軍人たちを急遽呼び戻した。ヴォロシーロフはその後もクレムリンで生き残り、ソビエト最高会議幹部会議長になっている。, 独ソ戦の最中、スターリンは将官を呼びつけて無理難題を強いた。そのときの返事次第では、スターリンの顔色が青ざめて残酷な目つきになった。とくに瞳が黄色を帯びると、相手はどう返事してよいか分からなかったという[398]。, 1944年6月、連合国はノルマンディー上陸作戦を開始した。その作戦名が「オーバーロード」と聞かされたスターリンは「それはどういう意味かね?」とモロトフに尋ねた。モロトフが「大君主あるいは支配者の意味です」と答えると、スターリンは気分を害した。「支配者は西からではなく、東からドイツを攻めるべき」と考えていたためであった。, 猜疑心の強いスターリンはホー・チ・ミンと初めて出会ったとき、スパイと疑っていた。ホー・チ・ミンはスターリンに会えた感激の余り、スターリンにサインを求めた。スターリンはこれに不承不承に応じた。しかし、部下に命じてホー・チ・ミンの留守中にサインを強奪して取り戻し、ホー・チ・ミンが、サインがないことに気付いて慌てていた様子を聞いて喜んでいたという。, 1941年の日ソ中立条約調印後のレセプションの場で、スターリンは外務大臣(当時)の松岡洋右に「プロフェッサー・コニシをご存知かな。是非お会いしたいのですが」と尋ねた。「コニシ」とは、京都大学の教授であった小西増太郎 (1861 - 1940) のことで、留学中にモスクワの下宿で若き日のスターリンと部屋が隣であり、親交を結んでいた。1940年の暮、小西は近衛文麿の密命を帯びてスターリンと面談するためロシアに渡ることに決まっていたが、その直前に急逝していた。スターリンはそのことを知らなかったようである。, 毛沢東を小物扱いしており、革命の熱気が高まればすぐ溶けるという意味合いで「マーガリン共産主義者」などと呼んでいた。1949年12月の初対面では、毛を自らの誕生日を祝う宴会で隣席に招いたものの、政治的な意見の対立もあって両者は打ち解けなかった。それでも、二人は、長時間の間、料理とワインを味わいながら両国間の懸案事項、東洋の思想について話し合った。特に毛が国家建設のたとえとして中国の伝説である「愚公山を移す」を話すと、スターリンは興味を持ち、「私たちが力を合わしたら山を掘り崩すどころではありますまい。」と同意を示したこともあった[399]。翌年2月、毛は市内のメトロポールホテルにてお別れの宴会を催し、スターリンは差し入れをもって出席した。クレムリンか別荘の宴会にしか出席しないスターリンにとっては異例のことであったが、スピーチで「チトーのように勝手な真似をすると惨めなことになりますよ」と脅迫めいたことを述べて毛を牽制した。, ウィンストン・チャーチルは本来反共主義者であるが、「ヒトラーを倒すためなら私は悪魔とでも手を組むだろう」と発言した。この「悪魔」というのはソ連=スターリンを指す。一方のスターリンは、同じ連合軍としてともにドイツと戦い抜いたチャーチルを好意的に捉えていたようである。第二回モスクワ会談では、「私には悪魔がついていますから」とチャーチルの発言を冗談にして笑い話にした。さらにチャーチルを自宅に招き、モロトフや娘だけの夕食会を開いた[322]。1944年10月、ルーマニアやギリシャの分割についてチャーチルと話し合い、スターリンはチャーチルが持参した紙切れに青鉛筆でチェックを入れた。長い沈黙が続いた後、スターリンは「数百万人の運命に関わるこれらの問題を、このような無造作なやり方で処理してしまった。ずいぶん利己的だと思われないでしょうか?この紙は焼いてしまいましょう」と提案した[400]。チャーチルとの会談では、「私は心の中で保守党が勝利するものと確信しています」と告げた。チャーチルが弱気になると、イギリス国民は貴方を支持するだろうと励ました[401]。ポツダム会談の途上でチャーチルが選挙に敗北したため、後継のクレメント・アトリーが来訪した際に「西側の民主主義とはちっぽけなものよ。偉大なチャーチルを、小物のアトリーと交代できないものか」と嘆いたとされる。, ユーゴスラビア連邦人民共和国のヨシップ・ブロズ・チトーは第二次世界大戦中にスターリンの支援を受けていたが、大戦後はソ連の支配から自立する動きを見せた。これに対し、スターリンは軍事顧問団および民間専門家の引き上げの通告で応えた。さらにスターリンは、ユーゴスラビア内の親ソ派を使って政権転覆を目論んだ。チトーも負けずに親ソ派の粛清に乗り出した。その後、コミンフォルム大会においてユーゴスラビアは「殺人者とテロリストが支配する国家」と激しく非難されコミンフォルムを除名された。スターリンはチトーを暗殺するために刺客を送り込むが、チトーは逆に自身の秘密警察に暗殺団を全員検挙させた。チトーは直後にモスクワのスターリンへ電話をかけ、「どうしても考えを改めないつもりなら一人の男をモスクワに送る。それで全て解決するだろう」と話した。スターリンはユーゴスラビアを支配下に置くことを諦めた。, 朝鮮戦争の際、毛沢東は「中共軍の装備は貧弱であり、数個師団では米軍に対抗できない」と考え、また、アメリカ、中華人民共和国、ソ連をも巻き込んだ全面戦争への発展を恐れて、参戦をためらった。しかしスターリンは次のような手紙を毛沢東に送った。「私としては(アメリカとの全面対決を)恐れるべきではないと考える。我々はアメリカ、イギリスよりも強いからだ。もし戦争が不可避ならば、今戦争になった方がよいだろう。アメリカの同盟者として日本軍国主義が復活し、アメリカと日本にとって李承晩の朝鮮(韓国)が大陸における彼らの前線基地となる数年後よりも、今がいいのである」。, 第二次世界大戦中、スターリンはモスクワ郊外の別荘にポーランド共産党書記長ヴワディスワフ・ゴムウカとボレスワフ・ビェルト(のちのポーランド人民共和国初代大統領)を呼び寄せた。彼らを迎えたスターリンは酒を飲んでいたのか、しこたま酔った口調で外相のモロトフと2人でビエルトを別室に連れ込んだ。すると、別室でスターリンが突然「おまえ、この野郎、ポーランドで何をやっているんだ!おまえはどんな共産主義者なんだ!農業改革のペースも遅いし、敵への態度も穏健すぎる。国内政策で革命的手段が足らんぞ、この野郎!」と怒鳴り上げた。ビエルトはスターリンが酒に酔った勢いで何か冗談を言っているのかと勘違いして笑っていたが、今度は近くにいたモロトフが、「この馬鹿、何故笑っているんだ。これは冗談ではない」とたたみかけた。ビエルトの顔からたちまち笑気が消え失せ、恐怖におののいたビエルトは、「不満があるなら政治局員を辞める用意がある」と述べた。これに怒ったスターリンは、再びビエルトに罵声を浴びせたという[402]。, イラクの元大統領サッダーム・フセインはスターリンに関する本を持っており、スターリンの政治手法を興味を持っていた。ただ、フセイン自身は反共主義者でスターリンを「無神論者」と嫌っていた。また、ベラルーシの大統領アレクサンドル・ルカシェンコは、スターリンとヒトラーの両方が好きだという。, 全集は大月書店より刊行された。全集に収録されなかった著作には、大月書店『スターリン戦後著作集』に収められている文献もある。, 貧困層出身で身長が低く幼少時に罹患した痘痕顔や、怪我に起因する曲った左腕など、民族的・階級的・身体的な, 軍隊の最高司令官となったスターリンは、さらに冷酷無比な存在として恐れられた。スターリンとの電話の際、将軍たちはたとえスターリンが目の前にいなくても誰もが直立不動、「気をつけ」の姿勢になったとされる。, スターリンの権力は絶大であり、他人に対して残忍に振る舞うことも平気であった。スターリンに対しては、誰一人として自分の意思を表明できない状態が生まれた。スターリンの下に友人として招かれた人間がスターリンと一緒に座っていると、そのあとにどこに連れて行かれるのか、すなわち自宅に帰れるのか、投獄されるのか、見当もつかない、ということがあったという。「人民の敵」と見なされた共産党のある幹部は、自分がいかなる陰謀にも犯罪にも加担したことはないが、取調官からひたすら拷問を受け続けた。その幹部は、党の正しさを信じつつ死んでゆくつもりだ、と言い残し、2日後に銃殺された, 権力の絶頂期の頃のスターリンは、部下に対して常に粛清をちらつかせながら接するようになった。スターリンの質問に「No」の返事を言うと、意見を言っても、曖昧な返事でも、返事を即答できなくとも、反乱を真剣に疑われ即粛清(死刑を含む)であった, Память священномученика Ермогена (Долганева), Although there is an inconsistency among published sources about Stalin's year and date of birth, Iosif Dzhugashvili is found in the records of the Uspensky Church in. 720 pages, The scale of Stalin's purging of Red Army officers was exceptional—90% of all generals and 80% of all colonels were killed.This included three out of five Marshals, 13 out of 15 Army commanders, 57 of 85 Corps commanders, 110 of 195 divisional commanders and 220 of 406 brigade commanders as well as all commanders of military districts. ヨシフ・スターリン - ソビエト連邦の政治家、最高指導者。 ヨシフ・パンチッチ - セルビアの植物学者。 ヨシフ・ブロツキー - ロシアの詩人、随筆家。 ヨシフ・ベルンシュタイン - ソビエト連邦(ロシア)出身のイスラエルの数学者。 スターリン全集 第1-13巻 スターリン全集刊行会 訳. 「スターリン」は英語でどう表現する?【単語】Stalin...【例文】STIRLING ENGINE...【その他の表現】de‐Stalinization... - 1000万語以上収録!英訳・英文・英単語の使い分けならWeblio英和・和英辞書 白揚社, 1930. スターリン・ブハーリン著作集 第12卷, 國際無産階級運動 ブハーリン 佐野學,西雅雄 編輯. ヨシフ・スターリン(Joseph Vissarionovich Stalin) 職業:政治家 誕生:1878年12月18日 死没:1953年3月5日 出身:ロシア帝国 ソビエト連邦の第2代最高指導者.1878年、ロシア帝国の支配下にあったグルジア(現在のジョージア国)のゴリで誕生する。 ヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・スターリン(ロシア語: Ио́сиф Виссарио́нович Ста́лин, 1878年12月18日(ユリウス暦 12月6日) – 1953年3月5日)は、ソビエト連邦の政治家、軍人(職業軍人ではない)。レーニンの死後、29年間に渡り同国の最高指導者の地位にあった。一般に広く知られている「スターリン」という姓は「鋼鉄の(人)」[注釈 1]を意味する筆名であり、本姓はジュガシヴィリ(ロシア語: Джугашви́ли、グルジア語: ჯუღაშვილი)である。, 1878年、ロシア帝国の支配下にあったグルジア(現在のジョージア国)のゴリで誕生する。正教の神学校で教育を受けるが[1]、のちに無神論に転向してマルクス主義の信奉者となり、1899年には神学校を去って革命家に転身した[2]。, その後、ウラジーミル・レーニンが率いるロシア社会民主労働党ボリシェヴィキ派に加わり、1912年には党中央委員に選出された。1917年の十月革命でボリシェヴィキが権力を掌握したのち、レーニンのロシア共産党による独裁国家が成立すると、その行政府の有力者となり、1922年4月には党書記長に就任し、同年12月のソビエト連邦創設にも深く関与した。1924年にレーニンが死去すると、続いて起きたレフ・トロツキーとの後継者争いを制し、自身が務めていたソビエト連邦共産党中央委員会書記長に権限を集中させることでレーニンの後継者としての地位を確立した。党内ではトロツキー派の世界革命論(永久革命)を否定して、一国社会主義論による国内体制の維持を優先する路線を示した。この理論対立はトロツキー派粛清の大義名分としても用いられた。, 以降、人民委員会議議長および同職を改組した閣僚会議議長 を1941年から1953年に死没するまで務めたほか、前述のソビエト連邦共産党中央委員会書記長などの要職を兼任、国家指導者としての立場を維持した[3][4]。, 1928年、干渉戦争に対応して行われた戦時共産主義体制による経済疲弊から一時的に導入されていた新経済政策(ネップ)を切り上げさせ、第一次五ヶ年計画を実行に移した。同計画では政府主導の農業事業の集団化(コルホーズ)を進めて合理化と統制を進め、脆弱な工業力を強化すべく工業重点化政策を推進した。結果として帝政時代からの課題であった農業国から工業国への転身を果たし、ソ連が世界第2位の経済を有する基盤を作り出したと評されている[5]。, 一方で、急速な経済構造の改革は反対派に対する厳しい弾圧と合わさって国民に多数の犠牲者を出すことになった。前者については農業政策の混乱によって深刻な食糧不足が発生し、1932年から1933年の飢饉へと繋がった。後者に関してはグラーグ(収容所)に収監された者だけで100万人以上[6]、これを免れた数百万人もシベリアなどの僻地に追放処分を受けた[6]。強権支配は大粛清と呼ばれる大規模な反対派摘発で頂点に達し、軍内の将官を含めて数十万人が処刑あるいは追放された[7]。, 1939年、ナチスドイツの台頭などによって国際情勢が不安定化する中、マクシム・リトヴィノフに一任していた仏英ソ同盟の締結が不調に終わったこともあり[8]、反共主義・反スラブ主義を掲げていたアドルフ・ヒトラーのナチス・ドイツと独ソ不可侵条約を締結し、秘密議定書に基づくポーランド侵攻は第二次世界大戦を起こすことになる。世界を驚嘆させたこの協定は政治的イデオロギーを別とすれば、ソ連政府によって有利に働いた。ポーランド分割、バルト三国併合、東カレリア併合(冬戦争)などの軍事行動における背景になっただけでなく、外交交渉においてもそうであった。第一次世界大戦における再三の鞍替え行為の末、ロシア革命後の混乱に乗じてベッサラビアを領有していたルーマニアに対し、ドイツと共同で外交圧力を掛けてベッサラビアと北ブコビナを返還させている。アジア方面ではドイツと同じ枢軸国の日本とも日ソ中立条約を結んだ。, 1941年、第二次世界大戦においても中立を維持していたソ連はイギリス本土上陸の失敗で手詰まりとなったドイツによる侵略を受け、独ソ戦が始まった。同時にイギリスを中心とする連合国陣営にも参加、米国の連合国参戦後はレンドリースによる援助対象とされている。自身の大粛清による影響もあって大きな苦戦を強いられ、多数の犠牲者や反乱に苦しんだものの、従来通りの強権支配を維持して軍と政府の統制を維持し続けた。やがて戦争が長期化する中で態勢を建て直し、最後には反攻に転じてドイツの首都ベルリンを陥落させ、東欧を支配下に置いた。アジア方面ではソ連対日参戦でモンゴルの独裁者ホルローギーン・チョイバルサンとともに満州と内蒙古、日本の北方領土や朝鮮半島北部まで攻め落とした。, 連合国陣営内でソ連が果たした役割は非常に大きく[9][10]、国際連合安全保障理事会常任理事国となり、米国と並ぶ超大国として戦後秩序に影響を与えた[11]。ヤルタ会談とポツダム会議では大戦後の欧州情勢についての協議を行って冷戦を始めて鉄のカーテンを築き、ファシズム打倒後の共産主義と資本主義の対立においては西欧諸国と北大西洋条約機構を結成した米国に対し、非同盟を掲げてスターリンと対立したヨシップ・ブロズ・チトー政権のユーゴスラビアを除く東欧諸国とワルシャワ条約機構が後に設立される。アジア情勢を巡っては国共内戦で中国共産党を支援して中国大陸に中華人民共和国を成立させ、第一次インドシナ戦争ではベトナム民主共和国、朝鮮戦争では朝鮮民主主義人民共和国を支援して竹のカーテンを築いて東側陣営を拡大していく。, 1953年の死没まで国家指導者としての立場は続き、ソ連内の戦後復興でも主導的な役割にあったことはスターリン様式の建設物が今日でも多く残っていることからも理解できる。また科学技術や工業力の重点化政策も引き続き維持され、核武装や宇宙開発などに予算や費用が投じられており、前者は1949年のRDS-1で成功し、後者ものちに実現している。最後に関わった国家指導は大規模な農業・環境政策たる自然改造計画であった。1953年に寝室で倒れ、病没した。, 死後から程なくしてスターリン後の権力闘争が行われたが、その過程でニキータ・フルシチョフらによるスターリン派に対する批判が展開され始めた。1956年、ソ連共産党第20回大会でフルシチョフは有名なスターリン批判を行い、一転してスターリンは偉大な国家指導者という評価から、恐るべき独裁者という評価へ変化した。この潮流は、反スターリン主義として各国の左派に影響を及ぼした。, その後もスターリンの評価は変遷を続け、現在でも彼の客観的評価を非常に難しくしている。この流れはソ連の後裔国家の一にあたるロシア連邦においても踏襲され、スターリンを暴君とする意見[12] と、英雄と見なす意見とが混在する状態にある[13]。また、1944年から1955年までのソ連国歌には名前が入っていたが、その次の国歌では名前がなくなっている。, ヨシフ・スターリンは1878年12月18日(ユリウス暦 12月6日)[14]、グルジア語名イオセブ・ベサリオニス・ゼ・ジュガシヴィリ(იოსებ ბესარიონის ძე ჯუღაშვილი)、ロシア語名ヨシフ・ヴィサリオノヴィチ・ジュガシヴィリ(Ио́сиф Виссарио́нович Джугашви́ли)として、ロシア帝国支配下のグルジア(現在のジョージア国)の街ゴリに生まれた。父ヴィッサリオン・ジュガシヴィリ[注釈 2]はゴリに工房を構える靴職人、母ケテワン・ゲラーゼはレンガ職人の娘であり、共に農奴の家系の出身であった[16][17]。スターリンは両親の第3子であったが2人の兄は幼児期に死没していたため、実質的には長男として育てられた[18]。, スターリンの生まれ故郷は騒々しく暴力的で、治安の悪い地域であった[18]。父ヴィッサリオンは靴職人として成功しており、一時は工房で10人の従業員を雇うほどの経済的余裕があったが[19]、伝統的なグルジア様式の靴への需要が減ったことで事業は行き詰まった[20]。飲酒に逃避したヴィッサリオンはアルコール依存症を患い、しばしば妻や幼い息子に暴力を振るうようになった[19][21]。1883年までに、ケテワンはスターリンを連れてヴィッサリオンの家を離れ、母子はその後10年間で9回も転居を繰り返す流浪の生活を始めた[22]。1886年、2人は親交のあった司祭クリストファー・シャルクビアーニ (Christopher Charkviani)の家に居候を始める[23]。ケテワンは掃除婦や洗濯婦として働き生活費を稼ぐ一方で、息子に学校教育を受けさせることを強く望んでいた[24]。, 1888年9月、シャルクビアーニ司祭の取り計らいにより、スターリンはゴリの教会付属学校に入学することを許された[25]。入学後のスターリンは他の子供たちと頻繁に喧嘩したが[26]、学業の面では極めて優秀な成績を残した[27]。一方で、幼少期のスターリンは病気や怪我に苦しめられ1884年には天然痘に罹患し、命は助かったものの顔面の皮膚に目立つ痘痕を残した[28]。また12歳の時までに2度に亘って馬車にはねられて大けがを負い[29]、後遺症で左腕の機能に障害を抱えることになった。母ケテワンはスターリンが学校に入ったことを大いに喜んだが、父ヴィッサリオンは息子に靴職人を継がせることを望んでおり、学業には反対していた。ヴィッサリオンはケテワンに「俺は靴職人だ。息子も靴職人になるさ」と溢しており[30]、息子を無理やり連れ去って自分と一緒に働く道を選ばせようとしたり、養育費を打ち切るなどの抵抗を続けていたとされる[18]。スターリンは度重なる父親の反対や障害を乗り越えつつ勉学に励んだ[注釈 3]。, 1894年8月、奨学金を得たスターリンは首都トビリシの神学校に入学した[32]。トビリシ神学校は全寮制であり、司祭を目指す約600人の訓練生と共同で生活することになった[33]。当初、スターリンは神学校でも非常に成績優秀だったが[34]、やがて神学に対する興味を失い、成績も下降していった[35]。また、学内で秘密裏に活動していた読書クラブに加わり、禁じられた書籍に触れるようになり[36]、カール・マルクスの著作である『資本論』に影響され[37]熱心なマルクス主義者となった[38]。神学校の記録によれば、スターリンは自らを無神論者だと宣言しており、礼拝への参加や修道士への挨拶を拒否していた[39]。また、1896年には禁止されていたヴィクトル・ユゴーの著書の所持で、1898年には朝の祈禱の欠席や規律違反、反抗的態度などで繰り返し注意や処罰を受けていた[40]。1899年4月、スターリンはトビリシ神学校を去り、2度と戻ることはなかった[41]。, 1899年10月、スターリンはトビリシ気象台の気象局員として働き始める[42]。勤務の傍ら、社会主義理論の宣伝活動を行って多くの支持者を引きつけ[43]、1900年のメーデーには大規模な労働者の秘密会合を組織し[44]、ストライキを呼びかけて実際に決行させた[45]。ロシア帝国の秘密警察であるオフラーナは、トビリシの革命的運動におけるスターリンの暗躍を察知し[45]、1901年3月には逮捕を試みたが、スターリンは逃走に成功し、以降は地下に潜って活動を行った[46]。これ以降、スターリンは友人や支持者からの寄付金に頼って生活し[47]、潜伏期間中スターリンは1901年のメーデーにおけるデモ活動の計画に携わり、メーデー当日には約3000人のデモ参加者が当局と衝突する事態となった[48]。 偉人ヨシフ・スターリンの名言集(英訳付)by心の常備薬 ヨシフ・スターリン:ソビエト連邦の政治家、軍人 フルネーム:ヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・スターリン Joseph Vissarionovich Stalin 本 … 偉人ヨシフ・スターリンの名言集(英訳付)by心の常備薬 ヨシフ・スターリン:ソビエト連邦の政治家、軍人 フルネーム:ヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・スターリン Joseph Vissarionovich Stalin 本名:ジュガシビ スターリン・ブハーリン著作集 第15巻. 日ソ親善協会, 1952. 1017–1049. ヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・スターリン(ロシア語: Ио́сиф Виссарио́нович Ста́лин, 1878年12月18日(ユリウス暦 12月6日) – 1953年3月5日)は、ソビエト連邦の政治家、軍人(職業軍人ではない)。レーニンの死後、29年間に渡り同国の最高指導者の地位にあった。一般に広く知られている「スターリン」という姓は「鋼鉄の(人)」 を意味する筆名であり、本姓はジュガシヴィリ(ロシア語: Джугашви́ли、グルジア語: ჯუღაშვილი)である。 スターリンとスターリン主義 ロイ・メドヴェーデフ 石堂清倫訳. アブドゥラフマン・アフトルハノフ『スターリン謀殺―スターリンの死の謎 ベリヤの陰謀』, アンソニー・リード、デーヴィッド・フィッシャー共著 『ヒトラーとスターリン 死の抱擁の瞬間』, 横手慎二『中公新書 2274 スターリン「非道の独裁者」の実像』2014年 中央公論社. 国民文庫, レーニン=スターリン青年論 自由ドイツ青年団中央委員会編 松本滋訳 1955. Getty, Rittersporn, Zemskov. みなさんはスターリンと聞いてどんなイメージが浮かびますか?ヒトラーや毛沢東のような独裁者のイメージが思い浮かぶでしょうが、いくつかの逸話や名言も残っています。ここではそんなスターリンという人物を掘り下げ、彼の残した名言、その背景や思想・哲学などを紹介します。 Knopf. ヨシフ・スターリン (露:Иосиф Сталин, 英:Joseph Stalin) ... この冒頭部分の意図は、「英語で書いてある部分を誰か、発音がわかる人に日本語におきかえて欲しい」というようなところではないかと思いま … Encyclopedia of Useless Information.Naperville, Illinous:Sourcebooks, Inc. 2007. レーニン主義の諸問題 第1 (レーニン主義の基礎) 広島定吉 訳. 白揚社, 1929. 三一書房, 1980.9. 白揚社, 1930.2. 第15回 スターリン全集刊行会訳 1954. F-86 Sabre vs MiG-15: Korea 1950–53. Superpower politics:change in the United States and the Soviet Union. 学習研究社, 1980.12. 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報, 本名ジュガシビリДжугашвили/Dzhugashvili。ソ連の政治家。12月21日ジョージア(グルジア)のゴリという町の靴屋の子に生まれる。チフリス(現、ジョージア・トビリシ市)の神学校在学中にマルクス主義の洗礼を受け、職業革命家の道に入った。ロシア社会民主党のボリシェビキ派に属し、逮捕と流刑、脱走を繰り返しながら、チフリス、バクーなどで地下活動に従事した。1912年のプラハ協議会でレーニンの指導下にボリシェビキ党が結成されると、その中央委員になり、機関紙『プラウダ』の刊行に参加した。翌1913年レーニンの勧めで『マルクス主義と民族問題』を著した。そのころからスターリン(鋼鉄の人)の変名を用いるようになったが、まもなく逮捕されてシベリアに流刑。1917年の二月革命で解放され、ペトログラード(のちのレニングラード、現在のサンクト・ペテルブルグ)に帰って『プラウダ』編集部に復帰した。初めカーメネフとともに臨時政府に妥協的な方針で党を指導したが、同年4月のレーニン帰国後はレーニンに従った。十月革命に際してはレーニンの即時蜂起(ほうき)論を支持して活動した。ただし8月の党大会で入党したばかりのトロツキーに比べて目だつ存在ではなかったが、レーニンを首班とするソビエト政権に民族人民委員のポストを得た。革命に続く内戦期には、ツァリーツィン(のちのスターリングラード、現在のボルゴグラード)防衛戦、ペトログラード防衛戦、デニキン軍攻略戦などで政治的組織者として活動した。内戦が終結した1921年3月の第10回党大会の段階で、レーニン、カーメネフ、ジノビエフ、トロツキーとともに5人の政治局員の一人。しかし翌1922年に党の書記長を兼ねることにより、要員の配置を通じて党内の絶大な実権を手中にしうる地位についた。そのような権力の集中は病床のレーニンの深く憂慮するところとなった。ジョージアの民族問題の処理にみせたスターリンの粗暴さを重視したレーニンは、その後継指導者としての資質に懸念を抱き、遺言となった「大会への手紙」のなかで書記長の更迭の必要性を述べた。, しかしレーニンの病状悪化によってスターリンの政治生命は救われ、レーニンが1924年1月に死去すると、その葬儀において自分こそがもっとも忠実な弟子たることを党の内外に印象づけた。遺書に述べられた勧告は非公表とされた。同年5月の第13回党大会で書記長に留任。党内にカーメネフ、ジノビエフとともにいわゆる三頭連盟体制をつくってトロツキーの権威失墜を図り、1925年に彼を軍事人民委員のポストから解任した。理論的にはレーニン死後の一連の著作のなかで一国社会主義不可能論から可能論に転換し、トロツキーの永続革命論に論難を加えた。やがて三頭連盟体制に分裂が生じると、ブハーリンと組んで合同反対派と対抗した。1927年にはトロツキー、ジノビエフらを党から除名した。その後はモロトフらとともにブハーリン、ルイコフらの右翼反対派と抗争。こうしてスターリンは反対派党幹部を次々に失脚させ、1930年代に入ると、党と政府を一身に掌握する独裁的政治体制を築いた。1920年代末から始まった急速な工業化と農業の全面集団化はこの強権のもとで強行された。さらに1934年のキーロフ暗殺事件を契機に「大粛清」を開始。その対象は旧反対派幹部だけでなく、古参ボリシェビキ、軍首脳部から一般党員、一般市民にまで向けられた。この間、1936年にいわゆる「スターリン憲法」が制定された。, 対外面では西欧民主主義諸国との協調による安全保障の道も追求されたが、これが失敗に終わると1939年にナチス・ドイツとの間に不可侵条約を結んだ。1941~1945年の独ソ戦では緒戦で大敗北を喫した。これはドイツの対ソ攻撃の見通しについてのスターリンの楽観的予測に起因するところが大きい。しかし国民の愛国心に訴えて反撃に成功。1922年以後の書記長、開戦の直前に就任した人民委員会議議長に加え、国防委員会議長、ソ連軍最高総司令官を兼務し、1943年には元帥、1945年には大元帥となり、戦争を通じて名実ともに権力を一身に集中し、その権威のもとに国民を結集して戦勝に導く一方、連合国首脳とともに戦後処理外交を推進、戦後世界秩序の枠組みをつくった。戦後その権威により引締め政策を国民に強いたが、1953年3月5日脳出血で死去した。, 『スターリン全集刊行会訳『スターリン全集』全13巻(1952・大月書店)』▽『ドイッチャー著、上原和男訳『スターリン』全2巻(1963・みすず書房)』▽『トロツキー著、武藤一羊・佐野健治訳『スターリン』全3巻(1967・合同出版)』▽『アゴスティ著、坂井信義訳『評伝スターリン』(1985・大月書店)』, 出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例, …しかし,第1次世界大戦後のヨーロッパ諸国における革命運動が後退すると,革命ロシアは孤立の中で国内建設を余儀なくされた。このような状況の中で,1924年にスターリンによって唱えられたのが一国社会主義論である。彼はこの理論をレーニンに由来するものとしているが,むしろレーニンが革命時に想定していたのとは異なった新たな状況の産物とみるべきであろう。…, …しかし,グレゴリー・アレクサンドロフと共同で監督した革命10周年記念映画《十月》(1927)は,製作中にトロツキー解任などの政変があって一部修正を強いられ,公開が遅れる。中断していた農業の社会主義化を描く《全線》も完成したものの,スターリンの批判によって公式の農業政策をとり入れたものに改変を命じられ,《古きものと新しきもの》と改題されて29年にようやく公開の運びとなる。その年エイゼンシテインはティッセとアレクサンドロフを伴ってヨーロッパへ出発し,世界映画史に特記されるローザンヌの〈国際アバンギャルド映画会議〉に出席。…, … 共産党の起源をマルクス,エンゲルスが組織した1847年の共産主義者同盟,そして第一インターナショナル(インターナショナル)に求める見方もあるが,より直接的には,第1次大戦の勃発による第二インターナショナルの分裂・崩壊,レーニンらの指導による1917年11月のロシア革命の成功を経て,19年3月に第三インターナショナル(正式には共産主義インターナショナル,略称コミンテルン)という世界単一共産党が創設されたことが,かつて世界に存在した100を超える各国共産党などの政党の真の起源となった。そのことは,コミンテルン支部として組織された各国共産党のイデオロギー,戦略・戦術,行動様式,組織原則などが,その初期においてはコミンテルン創設者レーニンらの,ついでソ連共産党内部でスターリンの覇権が確立されていき,それと並行してコミンテルンのソ連共産党への従属が進行していくにつれて,スターリン主義の,ないしはスターリンが定式化した〈レーニン主義〉の圧倒的に深い影響下にあったことを意味している。とくに後者の影響は,第2次大戦後もかなり長く残ることになった。…, …指導者に対する大衆の盲目的支持がこうじ,あるいはそのような状況を利用して指導者が自己に対する服従を強制する結果,宗教運動に類似した指導者への献身的な崇拝が生じること。一般的に革命を経験した体制において生じやすく,スターリン体制でのソ連や,晩年の毛沢東下での中国のように,共産主義運動が権力を握った後の国家で顕著に現れた。第三世界のカリスマ的指導者や民族主義運動のリーダーにも,英雄崇拝のような形でみられ,擬似革命的な象徴形式を利用するファシズムでも,〈指導者原理〉として知られる指導者崇拝が行われた。…, …1923年1月のルール占領に端を発する危機的状況がドイツ共産党とコミンテルンによって効果的に利用されることなく去り,資本主義の相対的安定期に席をゆずるとともに,コミンテルンのあり方も大きく変貌を遂げていく。24年6月から7月にかけて開かれたコミンテルン第5回大会では,レーニンの姿はすでに見られず,ボリシェビキ党内の指導権争いでいちはやく有利な地位を占めたスターリンによって,〈ボリシェビキ化〉が提唱され,コミンテルンにおける党内民主主義の制限,ソ連の対外政策同調化への圧力が強まった。[植民地・民族問題] コミンテルンは,ヨーロッパ中心主義を脱却できなかった第二インターナショナルとは違って,植民地,従属諸国における民族運動のエネルギーを高く評価し,これを先進国における変革に連結する反帝世界革命の構図をえがいていた。…, …独自の社会主義への道は,ソ連社会主義モデルの信奉に引き戻され,それに抵抗したユーゴスラビア共産党は,48年6月破門された。チトーとユーゴスラビア共産党はファシズムの共犯者,アメリカ帝国主義のスパイと非難されながらも,スターリンの要求に屈せず独自の道を歩んだ。ソ連共産党が和解の手を差しのべたのは,スターリンの死後であり,第一書記に就任したフルシチョフは55年5月ベオグラードを訪問,ユーゴスラビア共産党に加えられた数々の侮辱を詫びた。…, …しかし,上に指摘した用語法の不統一が現に見られるゆえんでもあるが,マルクス本人としては上部構造という言葉を必ずしも十全な自覚をもって術語的に用いているわけではない。 なお,スターリンの《マルクス主義と言語学の諸問題》(1950)におけるある立論が機縁になって,言語や科学は上部構造には属さない(もちろん下部構造にも所属しない)という議論が,一時期有力になった経緯もあり,マルクス主義者たちのあいだでも,上部構造という概念は確定的に定義されるには至っていない。史的唯物論【広松 渉】。…, …ソビエト共産党書記長になったスターリンによってもたらされた思想・体制・政策の総称。この呼称はトロツキーと彼の支持者が,レーニン死後のスターリン指導下のソビエト体制を批判的に論ずる時に使用したものであるが,スターリン批判(1956)以降は西側世界でも否定的意味をこめて,より広義に使われるようになった。…, …非政治的なものであれば,さまざまな社会団体が活動を認められた。 レーニンとスターリンは22年のソ連邦の成立をめぐって意見が対立した。スターリンは初め,各共和国を自治共和国としてロシア共和国に吸収する案すなわち〈自治化〉案を推進し,一方,レーニンは,ロシア共和国を含めて,すべての共和国は新しい〈同盟〉の中に同等の権利をもって加入すべきであるとする〈ソ同盟〉案を出した。…, …このうち,とくに政治局は事実上,党・国家の内政・外交にわたる最高決定機構として機能していた。 これに対し書記局は,本来は中央委員会や政治局の補助的機構であったが,22年にスターリンが書記長となると,人事配置,組織指導の権限をたかめた。書記局は中央委員会の各部局の日常的指導や政策決定に重要な役割を果たし,有給の専任職員からなる各級の党機関の統制,人事の指導を行った。…, …1930年代後半のソ連邦においてスターリンが行ったソ連邦共産党幹部や軍人,知識人,大衆に対するテロルを指し,主として〈西側〉の諸国で用いられる呼称。粛清とは元来プロレタリアの前衛党の党員としてふさわしくない人物を党から除名することを意味するもので,テロルとは無関係な概念であった。…, …中華人民共和国の建国早々,毛沢東主席は主席初の外国訪問として,1949年12月21日モスクワで開催予定の,スターリン首相70年誕生祝賀宴に参加のため12月16日訪ソ,その後スターリン首相と中ソ両国の友好団結について,年越しの長期会談に入った。翌50年1月には中国の周恩来首相も会談に加わり,50年2月14日ようやく,毛沢東,スターリン両首脳立会いの下に,期限30ヵ年,全文6ヵ条から成る〈中ソ友好同盟相互援助条約〉の調印がおこなわれた。…, … 両大戦間期には,社会主義革命を指向する運動と民族資本の主導する民族主義との関係をめぐる理論領域が複雑にからみあっていた。第2回コミンテルン大会におけるM.N.ローイ(1887‐1954)とレーニンとの対立,トロツキーとスターリンとの対立がこの問題把握の難しさを示している。レーニン,スターリンは民族資本の運動を支援することによって,社会主義的勢力の成熟を期待した。…, …この革命的マルクス主義の潮流を〈レーニン主義〉の名で呼ぶことは,レーニンの没後に始まった。ブハーリン,ジノビエフらもその定式化を試みたが,スターリンが1924年4月スベルドロフスク大学で行った講演〈レーニン主義の基礎について〉は最も包括的なものであった。スターリンがソ連共産党の唯一の指導者になるにつれて,このスターリンの定式化が唯一の正統的なレーニン理解とされ,全世界に広まった。…. スターリン全集. レーニン主義の基礎 佐野學,西雅雄 編輯. 第16回 スターリン全集刊行会訳 1954. Victims of the Soviet Penal System in the Pre-War Years:A First Approach on the Basis of Archival Evidence. Red Devils over the Yalu: A Chronicle of Soviet Aerial Operations in the Korean War 1950–53. France Meslé, Gilles Pison, Jacques Vallin, ce Meslé, Jacques Vallin Mortalité et causes de décès en Ukraine au XXè siècle + CDRom, According to Ellman, although the 1946 drought was severe, government mismanagement of its grain reserves largely accounted for the population losses. "North Korea's Alliances and the Unfinished Korean War" . 白揚社, 1929. Robert Service. No reproduction or republication without written permission. Michael Ellman, ", Simon Sebag Montefiore. Всесоюзний перепис 1937 р. в Україні:документи та матеріали, "О демографических свидетельствах трагедии советской деревни в 1931—1933 гг. The Journal of Korean Studies. スターリン主義に抗して あるアメリカ共産党員の回想 ジョン・ゲーツ 雪山慶正,西田勲共訳. 真理社, 1950. Hartston, William. 早川書房, 1975 のち文庫. 3, July 1948. 2007. 別巻 (レーニン主義の諸問題) 中城竜雄訳. 国民文庫, ソ同盟共産党大会政治報告. 合同出版, 1968. 大月書店, 1952-53. Stalin:The Court of the Red Tsar, Knopf, 2004 (, アントニー・ビーヴァー著 川上洸訳」「ベルリン陥落 1945」白泉社 625-626頁, Сталин(スターリン)という名称は、ロシア語で「鋼鉄、鋼」を意味する名詞сталь(スターリ)に、「~の」を意味する接尾辞-ин(イン)が付いて形成された語である。したがって、この名称を文字通りに訳せば「鋼鉄の」となる。, チアトゥラでは、スターリンとメンシェヴィキ党員の両者が炭鉱労働者からの支持を争った。メンシェヴィキ党員たちの大胆な雄弁よりも、明白で簡潔な話し方をするスターリンを好んだ鉱夫たちは、後者を選んだ, レーニンの遺書は地方代表団の長にだけ読み聞かせられ、トロツキーはスターリンの解任を要求する好機を掴むことができなかった, en:Forced settlements in the Soviet Union, http://books.google.co.uk/books?id=TVOBqYG86EIC&dq=Terror+in+My+Soul:+Communist+Autobiographies+on+Trial&pg=PP1&ots=NMnl1AZWon&sig=9GSNRBpzl4MnhaGB5zWY0razesY&hl=en&sa=X&oi=book_result&resnum=1&ct=result#PPR7,M1, http://books.google.com/?id=m-voAAAAIAAJ&dq, Russian youth:Stalin good, migrants must go:poll. ", “Natural Disaster and Human Actions in the Soviet Famine of 1931-1933”, https://web.archive.org/web/20120824073308/http://www.as.wvu.edu/history/Faculty/Tauger/Tauger%2C%20Natural%20Disaster%20and%20Human%20Actions.pdf, http://www.faminegenocide.com/resources/findings.html, Statement by Pope John Paul II on the 70th anniversary of the Famine, Expressing the sense of the House of Representatives regarding the man-made famine that occurred in Ukraine in 1932–1933, “Was the Ukrainian Famine of 1932–1933 Genocide?”, http://www.faminegenocide.com/resources/bilinsky.html, “Stalin and the Soviet famine of 1932 – 33 Revisited”, http://www.paulbogdanor.com/left/soviet/famine/ellman1933.pdf, The 1947 Soviet Famine and the Entitlement Approach to Famines, http://www.ukemonde.com/holodomor/index.html, https://web.archive.org/web/20060312002026/http://ipn.lexi.net/images/uploaded/12-402934626c558--charles_steele_chapter6.pdf, Reassessing the Standard of Living in the Soviet Union. クレムリンとのわが闘争 私はスターリンに裏切られた ミロヴァン・ジラス 新庄哲夫訳. ヨシフ・スターリンまたは彼の時代の、あるいはそれらに関するさま - 日本語WordNet Soviet statesman and premier who denounced Stalin (1894-1971) 例文帳に追加 ソビエト連邦の政治家で、スターリンを弾劾した首相(1894年−1971年) - 日本語WordNet スターリンの肖像 ヴィクトール・セルジュ 吉田八重子訳. 大粛清(だいしゅくせい、露: Большой террор )とは、ソビエト連邦(ソ連)の最高指導者ヨシフ・スターリンが1930年代にソビエト連邦および衛星国のモンゴル人民共和国等で実行した大規模な政治弾圧 … 新人物往来社, 1971. スターリン・ブハーリン著作集 第1巻, ロシアに於ける階級闘争と革命 ブハーリン共著 佐野学,西雅雄共編 スターリン・ブハーリン著作集刊行会, 1929, 共産主義序説 レーニン共著 高山洋吉訳. スターリンの死 ジョルジュ・ボルトリ 杉辺利英訳. 18 (2): 238. 翌朝、目を覚ましたスターリンが犬は死んだのかどうかを護衛に訊ねると、護衛は「あの犬は盲導犬であり、追い払いました」と答えた。するとスターリンは「ではその犬を連れてこい」と喚き、護衛によって連れてこられた盲導犬を自らの手で射殺したという。そして直後に「今度命令に背いたら、お前もこうなるのだ」とその場に立ち合った護衛に告げたとされている。, 他に、粛清した政敵の写真を見て悦に入りながら、自身の故郷のグルジアワインを愛飲するという残虐な一面を見せていたことも語られている。, 一部のボリシェヴィキ党員は、スターリンを「オフラーナの工作員」として訴えたことがある[387]。帝政支持者による迫害からの逃亡は、スターリンにとっては容易なことで、刑罰も非常に軽かったため、スターリンがオフラーナの工作員であるという噂も立った。裏切り者を探し出すという彼の取り組み(1909年)は、党内で多くの対立を引き起こした。スターリンはオフラーナの命令で故意に争いを引き起こしたとして、一部の党員が彼を訴えようともした。メンシェヴィキ党員のen:Razhden Arsenidzeは、スターリンが同志を裏切った、と述べた。, 1916年、ボリシェヴィキ党員のステパン・シャウミャンは、スターリンを「オフラーナの工作員」であるとして直接訴えた。彼の個人秘書であるオルガ・シャトゥノフスカヤによると、これらの意見はスタニスラフ・コシオール、イオナ・ヤキール、その他著名なボリシェヴィキ党員らの意見を共有させたものという[388]。噂は、流刑からの脱出の際にオフラーナのバッジを使ったことをスターリンから伝えられたDomenty Vadachkoryという人物による回顧録がソ連国内で出版されたことで補強された[389]。刑務所からの複数回の逃亡と亡命をスターリンが軽視していたことも、疑惑を増大させる原因となった[388][390][391]。スターリンがオフラーナに協力していたという確かな証拠はいまだ見つかってはおらず、メディアが出版したオフラーナによる嫌疑がかかっているスターリンに関する2、3の報告書は、捏造されたものと見られている[389]。, ロシアの作家エドワード・ラジンスキーの本『スターリン』では、情報提供者がレーニンによって選ばれ、スターリンがロマン・マリノフスキーと同様にオフラーナのために働くふりをする二重スパイであったかもしれないと示唆している[388]。別の歴史家サイモン・セバーグ・モンテフィオーリは、残存しているオフラーナの全ての記録から、スターリンは革命家であり、決してスパイではないことが分かったと述べている[18]。1967年にスターリンの伝記を書いたエドワード・エリス・スミスは、スターリンがオフラーナの捜査網から逃れられるには疑わしく、旅行を妨げられず、収入源なしで民衆を煽り立ていたとして、スターリンはオフラーナのスパイであると唱えた。その一例として、1901年4月3日に発生したトビリシのグルジア社会民主党の主要な党員のほとんどが(スターリンを除いて)逮捕された急襲事件がある。このときのスターリンは麗らかな春の陽気を味わい、「革命なぞ糞喰らえ」と真剣に考えていた[387]。, 共産党員以外の一般の国民たちも、スターリンによる犠牲者であった。大粛清の時代、早朝のまだ空が薄暗い時間帯に自宅のドアをノックする音が聞こえ、住人が何事かと出てみるとNKVD(内務人民委員部)の人間が立っていた。住人はその瞬間、何が起きたか悟った。NKVDは、家の中を片っ端からひっくり返して「証拠」を探すのである。住人は「黒いカラス」とよばれる囚人護送車に乗せられ、ルビヤンカに連行させられた。そこで、NKVDの人間から詰問され、容疑者が罪を自白するとその自白を基に調書が作られた。容疑者が容易に自白しなければ、拷問も含めた厳しい尋問が行われた。, これがいわゆる「深夜のスターリンノック」である。スターリン時代のソ連ではこれが日常茶飯事であり、一説に36〜38年の大粛清期に100万人が銃殺され、数百万人がグラーグなどの強制収容所における過酷な労働の末、死亡したと言われる。, スターリンはもともと人間不信であったことが知られていたのだが、権力を得る過程において独裁者にありがちな周辺人物への疑いと不信の意識が加わることにより、国民に対しても猜疑心が極限まで加速していたのである。, スターリンがいた神学校では生徒たちは厳しく教育されたが例外もあった。ベリャーエフという善良で柔和な視学官がいたが、生徒たちは彼のことを恐れず、それゆえに尊敬もしなかった。ある日、ベリャーエフは生徒たちを洞窟の史跡に連れて行った。途中に濁った広い川が流れており、生徒たちは飛び越えたが、ベリャーエフは肥っていたために飛び越えることができなかった。生徒の1人が川に入って教師に背中を差し出し、ベリャーエフはそれを踏み石代わりにしてようやく川を越えることができた。これを見たヨシフ少年は小声で「ロバかい、おまえは?おれなら神さまにも背中を差し出したりしねえよ」と言い、それがみんなに聞こえた。「スターリンは病的なまでに自尊心が強く、さんざん卑しめられた者によくあることである」とエドワード・ラジンスキーは述べている[392]。, スターリンは、帝政時代において少数民族であり一般のロシア人より格下と認識されていたグルジア人であったことや、貧困層の出という身の上から幼少期からの交流は少なかった。加えて自身の身長が低かったことなど体格に恵まれない面から、抱えるコンプレックスは相当なものでひたすら劣等感の強い人物であった。, 彼は妻子などの配偶・近親者にも心を開くことはなく、多くの近親者も不幸な最期を迎えている。1905年、スターリンは最初の妻であるエカテリーナ・スワニーゼと結婚し、長男のヤーコフをもうけるも、エカテリーナは25歳で病没した。 とくダネ 鈴木啓太 休み, 嵐 ドラマ 配信, 2045年 東京都 人口, 神田 肉 安い, 霞城セントラル 駐車場 割引, 彼氏 プロポーズしてくれない 知恵袋,
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